2020年(欧洲杯外围盘口_欧洲杯滚球平台-投注|官网2年)3月 卒業生に送る言葉
人のために生きる
2019年12月、私は、大切な人を相次いで亡くしました。おひとりは私が大学1年の夏休みから21年間にわたって声楽の個人レッスンを受けていた、元エリザベト音楽大学助教授の西尾優先生です。行年85歳でした。西尾先生には、声や歌だけでなく、私のライフワークとなっている「キリスト教用語の研究」という研究課題を与えていただき、研究者?教育者としての在り方、人としての生き方を教えていただきました。先生は10月に入院され、「今夜が山」という担当医の言葉を4度も5度も覆され、残された者たちに最後の「レッスン」をしてくださいました。
西尾先生は、2020年3月7日に、演奏会を企画されていました。エリザベト音楽大学創立者で初代学長のE?ゴーセンス先生の追悼演奏会です。ゴーセンス先生は、1973年の3月8日に亡くなっています。47年前のことです。
西尾先生が、もう起き上がれなくなった病床で、私に向かって「ゴーセンス先生の広島の街に対する貢献を伝えたい、伝えてほしい。」と仰った言葉が、先生と私の最後の会話になりました。徐々に体力が損なわれていく中、息子さんの手を借りて、身体を起こすためのリハビリを、懸命に、一心不乱に、続けていらした姿を目にしたのが、お亡くなりになる3日前のことでした。自分の命が尽きようとしている、その最後の時間を、自分の恩師の追悼演奏会実現のために過ごす。そのお姿は、命を懸けての、私に対する最後の「レッスン」となりました。
12月には、もうひとり、かけがえのない人を亡くしました。妻の祖父である〇〇〇〇さんです。行年99歳。大正、昭和、平成、欧洲杯外围盘口_欧洲杯滚球平台-投注|官网の4時代を生き抜いた大往生の人生でした。子、孫、ひ孫に囲まれ、皆から「おじいさん」と呼ばれ、親しまれていました。おじいさんは、毎朝、「般若心経」の写経をされていました。300字弱のお経を、毎朝、毛筆で書く。それが、おじいさんの日課でした。
おじいさんを荼毘に付す折、大量の「般若心経」が棺に納められていたので、1枚もらい受け、家に持ち帰り、額縁に入れたのですが、そのときに初めて気付いたことがありました。
毎朝おじいさんが写していた「般若心経」は、自分自身のためではなく、誰かの魂の平安を祈って、書かれていたのです。私が持ち帰った「般若心経」には、末尾に「為先祖代々之霊(明治二七年九月
二代祖父安太郎)安誉良心信士之霊」と書かれていました。明治27(1894)年に亡くなった、おじいさんのおじいさんの霊に捧げられたものだったのです。もうすぐ100歳になるというおじいさんが、毎朝、誰かの為に、筆を持ち、写経をする。その営みは、何十年続けられたのでしょうか。燃やしてしまった中に、私の妻や、私の為に書かれた「般若心経」もあったのでしょうか。
豊かで幸せな人生を過ごすために
人は、どのように生きれば、豊かで幸せな人生を過ごせるのだろうか―これは私自身の問いでもあり、また人類共通の問いであると思います。これまで、私は、自信がないながらも、「他者に貢献すること、誰かのために生きること、人から感謝されること」というようなことが、その答えであると思ってきたし、学生から問われれば、そう答えてきました。しかし、西尾優先生とおじいさんの人生や命、そして死と向き合い、今は、自信を持って「豊かで幸せな人生を過ごすために、人のために尽くそう。自分の時間を、自分の人生を、誰かの為に使おう。」と、言うことができます。
2019年11月、ローマ法王フランシスコが来日し、長崎、広島、東京を歴訪されました。キリスト教2000年の歴史の中で、法王の来日は2度目のことでした。私はカトリック信者ではありませんが、法王の言葉には深く共感することが多く、言動に注目してきました。その法王が、来日中に行った「青年との集い」(東京カテドラル聖マリア大聖堂、2019年11月25日、東京)の中で、次のように仰っていました。
もっとも重要なことは、何を手にしたか、これから手にできるかという点にあるのではなく、それをだれと共有するのか、という問いの中にあると知ることです。この問いを問うことを習慣としてください。「何のために生きているのではなく、だれのために生きているのか。だれと、人生を共有しているのか」と。何のために生きているかに焦点を当てて考えるのは、それほど大切ではありません。肝心なのは、だれのために生きているのかということです。(中略)
だからこそ、次のように問うことが大事なのです。「わたしはだれのためにあるのか。あなたが存在しているのは神のためで、それは間違いありません。ですが神はあなたに、他者のためにも存在して欲しいと望んでおられます。神はあなたの中に、たくさんのよいもの、好み、たまもの、カリスマを置かれましたが、それらはあなたのためというよりも、他者のためなのです」(使徒的勧告『キリストは生きている』286)。
後輩のため、友人のため、大学のために尽くしてくれた2016年度入学生
2016年11月、私は、国際文化学科の学科長をお務めだったA先生からの指名を受け、オリゼミ担当教員を引き受けました。皆さんが入学した折には、キャンプ場でバーベキューをし、大学に戻ってスポーツ大会を実施したと聞いています(小川は不参加)。それは、当時の国際文化学科の伝統で、それなりに楽しく、だからこそ、そのスタイルが続いてきたのだと思われますが、私には不満でした。オリゼミの担当教員を引き受けたとき、オリゼミを、大学生らしい、学修を含む、より知的で様々な刺激のある親睦行事にできないか、と考えました。そして、その折に私が担当していた「コミュニケーション入門」の授業を履修していたN君に声を掛け、そのような思いを伝えたところ、リーダー役を引き受けてくれることになりました。N君に最初に声を掛けた理由は、たまたま、彼が受けた推薦入試の面接を担当していて、強く印象に残っていたからです。余談ですが、N君の面接での様子を見ていたB先生は、N君の退室後、小川の顔を見てニヤリとなさり、「政治家みたいだったね」と呟かれました。
さて、N君は、あっという間に「オリゼミ委員」を募り、春休み期間中も毎週のように会議を開き、〈尾道で班別研修を行う〉というオリゼミをやり遂げました。それまで、オリゼミ委員は4月のオリエンテーションの日に募り、2~3度の会合を経て実施、というやり方でした。尾道でのオリゼミ実施後、B先生が仰った「これを経験したら、もう今までのオリゼミには戻れんわ」の一言は、新しい方法によるオリゼミの成功を雄弁に物語っていたと思います。
他方で、オリゼミ委員に過度の負担がかかっていることを、心配し、懸念してもいました。しかし、多くの学生が、翌年も、継続して委員を務めてくれました。私は、オリゼミ委員は3年生が主体となり、3年生と2年生が半々ずつ15名程度で組織され、3年生が2年生を導き、引き継いでいく、というスタイルが伝統になれば、と思っていました。だから、N村君たちが3年生になっても委員を続けてくれ、本当に、嬉しく思いました。以下、感謝の気持ちを込めて、オリゼミ委員全員の氏名を掲げたいと思います。
(中略)
時間のある大学生とは言っても、春休み期間中に、オリゼミのために、つまり、後輩たちに気持ちよく大学生活をスタートしてもらうために、自分の時間を、多く、そして快く捧げてくれたオリゼミ委員には、心から、感謝の意を表したいと思います。皆さんのような時間の過ごし方をし、生きていくことが、私の目標です。
オリゼミ委員の他にも、学友会で重職を担った人、また、この『卒業文集』の編集や卒業記念パーティーを主催してくれている学生たち、様々な場面で大学に尽くしてくれた学生たちに、感謝の誠を捧げたいと思います。ありがとう。
向上心を持って成長を続ける人間であれ
優しくなりたい、賢くなりたい、人格的に成長したい、霊的に成熟したい、あるいは、経済的に成功したい、影響力のある人間になりたい―そういった気持ちを、多かれ少なかれ、殆どの人が持っているのではないでしょうか。大学を卒業したとは言っても、まだまだ皆さんは未熟であるし、更なる成長が期待され、そのために、向上心が不可欠であると思います(小川は、来年40歳になるというに、知的にも、人格的にも、霊的にも、まったくもって未熟であるし、だからこそ、努力をしているつもりです。)。今は、自分の成長だけを気に懸けて時間を過ごしている人もいるかもしれません。けれども、それは、いつか、誰かの為に、自分を使うための、貢献するための、準備期間なのだと思います。支える為には強さが、癒やすためには優しさが、導くためには知性が必要です。だから、精一杯、誠実に日々を生き、自己を磨き、成長を続けてほしいと思います。そして、培った力、人間性で、誰かの人生に、あるいは、未来の世代のために、貢献してほしいと願っています。
「愛」――受けた心を反(かえ)すこと
西尾優先生は、私が大学を卒業するとき、そして、結婚式のご挨拶の折に、次のことを話してくださいました。
「愛」という字は「受」けた「心」を「反」(かえ)す、という形をしています。君(たち)はこれまで、多くの愛を受けて育ってきました。これからは、愛を与える側の人間になってください。
皆さんは、今日まで、多くの人の愛情を受けて、育ってきたと思います。これからは、愛を渡す人になってください。その為に、努力をし、成長を続けてください。家庭で、地域で、職場で、社会で、世界で必要とされ、愛し、愛され、そのことを通じて、豊かで幸せな人生を過ごしていかれますように。心からの感謝と、敬意を込めて、皆の人生に多くの祝福がありますようにと、お祈りしています。